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酒と音楽が好きなゲイのブログ

殺せるもんなら、殺してみろよ


誰かと遊んだ後、バイバイする瞬間がめちゃくちゃ悲しいし、できることならもっとずっと側にいて欲しいと思う。
だけど、おれは強いからそんなこと言わないし、態度に出したりしない。結局のところ、大抵のことは1人で考えて処理できるし、解決することができる。そういうことに気づいてしまったから、人が生きる上で最も重要な愛することや愛されることに意味を見出せなくなってしまった。コリント13章では、信仰、希望、愛の3つがどうのこうのって述べていて、このうち最も優れているのは愛だと言っている。優れているのという表現からわかるように、愛はとても優秀であり巧妙な手段なのである。利便性がとても高い。愛は盲目、などと言うように、人が夢中になることができるという点で充実感を与えている唯一の感情だ。きっと多くの人が愛を感じた時にしあわせとかいう単語で形容してしまうのだろう。
おれには何も響かないし、このがんじがらめにされ、冷凍庫のように凍った心の結露を溶かさない限り、誰も立ち入ることはできないと思うし、誰も許すことができないと思う。飽きたって言われるくらいなら死んだほうがマシだ。例え、綺麗な言葉、綺麗な思い出を口ずさんだとしても心には取れないピアスが残るだけ。まるで飲み込めない、喉に刺さった魚の骨のようだ。疼くまって、実験音楽を聴いている。何回も窓やドアを叩かれても誰も入れたいと思わない。世間では未だになんちゃら細胞がどうのこうの言ってる。それは心の傷を癒すことができるのでしょうか?いや、できないでしょうね。メンタルのコントロールやケアは全て、あるようでないに等しい。言葉や薬の処方はまやかしにしかすぎない。誰かの体温を感じたいけれどできないから今日もぬいぐるみを抱いて眠る。その温もりが自分の体温の伝達によってできたものだと知りながら、見て見ぬ振りをしている。インターネットでは常に噛みつき、犬のように吠える。そうすることで周りの人たちから反感を買って、喧嘩して勝利することで生きがいを感じる。いつまでたっても、Twitterでは”死ね”ってつぶやくやつがいなくならない。死ねや殺すって言葉が自由に羽を持って各地へ羽ばたいている。とても恐ろしいし、それは孤独へと繋がる虚構の断片だ。仲のいい友達は甘いものを食べて、暖かくして眠れと言う。的を得た答えを言われることが嬉しくてその人が好きになる。それは間違っているってわかっている。その人が好きになるのではなく、言って欲しい言葉を言ってくれたその行為が好きになるのだけなのだ。毎日何回もツイートするのは世界と繋がっていたいからだ。そこでイライラしたりするのはとても馬鹿げている。若い人が何を言ってもダメだと思われている。そのくせ社会は若い人を少なからず求めている。いつだって誰かが側にいなきゃダメな人もいる。けれど、おれは一人でも平気みたい。朝が来て夜が来て、その繰り返し。毎日をこなし、死んでいく。それだけの話。心のドアを叩いてくれる人を本当は待ち望んでいるのかもしれない。殺せるもんなら、殺してみろよ。薄っぺらいガラスの向こうで待っている。